ヨーロッパ、アメリカの西洋人は悪魔であり、日本人は相当頑張ってやっと鬼になるレベル、と思った随筆集とその話。

ダリーブルースの夜

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日本がアジア諸国に大迷惑をかけた先の戦争を肯定する気は全く無いのであるが、それとは別として、「鬼畜米英」とは案外、的を得た表現だな・・・とは前々から感じている。

 

図書館で借りた「日本の名随筆別巻98 昭和II 加藤典洋編」の山田風太郎氏と三島由紀夫氏の随筆を読むにつれ、考えがまたアプデされたので、ちょっと書いておきたいと思う(発行所の株式会社作品社はエライ)。

※上記本は是非とも読んで欲しいのだが、Amazonなどには近い本しか出てこない。日本の名随筆シリーズは100冊以上出版されているが、全部読みたいくらいいい随筆が揃っている。

※参考)似てるけど違う「昭和1」随筆↓

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今回思った感想は下記だ。

「西洋人はことごとく悪魔的な思考の中で生きており、実際に悪魔的な所業を歴史上繰り返してきた。その「悪魔」になることは日本人には根本的には不可能である(真似事はできてもだ)。平静、日本人はどちらかというと、猿社会に近い「平和な」社会を生きており、思考のベースはまさに猿なのである。そしてどんなに悪魔を目指しても悪魔にはなれず、少しテイストの違う「鬼」レベルにとどまるのである・・・」

 

悪魔とはもちろん比喩であるが、直接的な意味も込めている。

彼ら西洋人はどう考えても悪魔(デモーニッシュな)としか言えない歴史と思考の中を生きている。

そしてどう頑張っても、彼らと同じ土俵の上では日本人は絶対に勝てないのである。

 

「日本人は猿社会を生きている」と書いたが、猿をバカにしているわけではない。日本人だって人間には違いない。

ただ、思考、行動様式の上では「日本人は悪魔よりも猿に近いところに立った人間である」と言いたいのである。

 

「そうか、私たちは猿なのか・・・」と落ち込む必要は全くないことは最初に言っておきたい。

ただ、

  • 私たち日本人は絶対に西洋的悪魔にはなれない
  • 西洋人とは根本的に考え方が違うのだから、同じ土俵で戦っても永遠に勝てない。

 

と、言いたいのである。

なぜ西洋人は悪魔の素養が備わっているのか。

悪魔の素養が備わっているということは同時に天使の素養も備わっているわけなのだが、どうも日本人の場合、そのどちらも備わっていない感じがするのである。

日本人の場合、愛といっても、それは普遍的な愛ではなく、せいぜい家族愛、地元愛の域を出ないものである。

 

西洋人がなぜ悪魔か。それは歴史上、彼らは殺しのプロであり、芸術のプロであるからだ。

彼らの抱く理想主義とそれを実行するための「効率的に人を殺めるシステム」には、本当に舌を巻くほか、無い。

 

↑どうしてこんな感じなのか。理由は色々あるだろうし、私にも全部わかるわけでも無いのであるが、

  • ヨーロッパという土地がそもそもやせている。作物がそれほど土地であったこと
  • シェア、みんなで分けて暮らすという発想に乏しいこと

なんかが、あげられると思う。

 

悪魔だからといって、始終、100%悪いことをずっと繰り返しているのかというとそういうわけではもちろんない。

悪魔には「悪魔的」という意味が多分に含まれており、「悪魔的にカッコいい」というのももちろんある。

 

そう、悪魔は「基本的に見栄えがいい、かっこいい」のである・・・。そして日本人にそれは無理ゲー。目指す境地ではない。

 

ただもう、「西洋人=悪魔」と割り切った方が、日本人の理解も進むのでは無いかと思い、この文章を書いている。

もし我々日本人が「理想」を持って生きるなら、あまり西洋のことは話半分くらいに参考にする程度でいいと思う。

 

我々、日本人は「大絵巻、大局観」を持って「世界そのものを変えていく」視座というものにことごとく乏しいと感じている。

根本的に「その日暮らし発想」しかできないのが日本人なのである。そういう点が「お猿さんに近い」と私は言っているのである。そして、その暮らしは別に悪いわけではない。それはそれで立派な社会、文明なのである。

 

日本人は明治期の文明開化まで「お猿さん社会」でずっと暮らしてきた。

その後、否応なく、西洋列強による侵略から日本を守るため、必死で文字通り「猿真似」を実行し、それにある程度成功し、現在に至っている。それは必要なプロセスであった。

 

私は十分、「西洋の猿真似」のままで日本はいいのでは無いかと感じている。

歩んできた思考、歴史が全く違うのである。

 

「猿真似」とおかげで、日本は大いに繁栄した。しかしながら、同時に途方もない犠牲を払ってきたのも事実であるし、その犠牲者は今もある面では増えていると感じている。

 

どれだけ、頑張っても日本人は「ある分野」での鬼にはなれても「世界観を持った悪魔」には絶対になれないのである(よく言われることではあるが、戦術家にはなれても戦略家には日本人はなれない・・・みたいな話にも繋がる話である)。

この点を意識しておくだけで、ちょっと心が軽くなるのではないか。

 

「猿真似」はそもそも日本人本来の生理とは少し違った後天的な努力のたまものであるとも感じている。大いに猿真似も疲れるのである。

 

「洋服を着ろ、パンを食え」から始まり、日本人は西洋人の文化を押し付けられ続けてきた。「正直、もうしんどい」というのが正直な感想だろう。

 

「だからこそ、西洋とは違う「一本の大理念」が日本人には必要だ」とは私は全く思わない。

何回も言うように「日本人は猿社会を生きている」。もうちょっというなら、日本人は猿に近い。

悪口風にいうなら「日本人は猿」である。

 

・・・と、猿と言われて怒り狂うのも「違う」と私は思う。

 

悪魔が全面的に良心的なのかというとそれは全く違うであろう。

我々日本人が、悪魔と対峙できる「もう一つの悪魔」を作り出すことに一生懸命になる必要は全く無い。奴らと同じ土俵に立つことはないのである。

 

崇高な悪魔と対峙できるのは意外にも「猿」なのかもしれないと私は本気で思っている。

 

猿とバカにされつつ、人生を過ごすのは、少しつらい感じもあるが、言わせておけばいいと思う。

 

悪魔となるには、無理と犠牲が大きすぎる。日本人は必然的に「自分の道」を歩む他は無いらしい。

たまに我が身を振り返り、悪魔を参考にする程度でいい。悪魔が正しいとされる時もあるだろう。

 

理想とはほど遠い態度かもしれないがそれが日本人の生きる道である。

すなわち、「その後のストーリーも描けないのに(そういうのは悪魔の専売特許なのである)、大侵略をやってしまった先の戦争はまさに、大失敗は当然の結果」なのである。

 

結句、「分をわきまえた生活をしましょうね」というとんでもなく普通な結論に収束するわけであるが・・・。

 

そんなことを山田風太郎氏、三島由紀夫氏の随筆を読んで大いに感じたのである。

 

山田風太郎氏は忍法小説作家であるが、青少年期、戦中を過ごした人で、その時つけられた日記は非常に読むに値する価値があると思う。

※今回私が読んだのは「戦中派の考える「侵略発言」」だ。ずいぶん昔から同じような問題発言で政治家は突き上げを喰らってきたんだなあ・・・という感想から始まる文章であったが、その後がまた良い筆勢なのである。

※山田氏のこんな本も見つかった。「戦中派」としての矜持が聞けるであろう。

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三島由紀夫氏の「私の中の二十五年」も名文中の名文である。まあ、三島さんですから、名文しかないわけですが・・・。

「日本の名随筆別冊98 昭和II」がどうしても見つからなければ、三島由紀夫全集 第34巻に「私の中の二十五年」は載ってるらしいです。これって貴重情報かも・・・。

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なんか前に読んだことあるような文章でもあり、もしかしたら国語の教科書とかに載っていたのかもしれないですね。

 

というわけで今回はお開きです。

 

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