どうも大阪市在住はみだしブルースマンのダリーです。今日は日本の宗教について。悪く言えば、日本人、非常に節操がありません笑。良く言えば、頭が柔軟。
日本人の魂の感覚ってもう神道、仏教、迷信がそりゃもうごちゃ混ぜになってワケわからなくなっていると思うんですよ。神仏習合といえば聞こえはいいんだけれども。
そういうフトコロの深さが日本のいいところなんだと言えば聞こえはいいけれども。
昔の日本人は確かにフトコロ深いような気もするんですが、現行日本人は別に奥行きある人物なんてあまりいないような気がしていますダリーウメモです。
というわけでぼんやりとした魂、信仰の感覚を今回は少し整理したいと思います。
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この記事を読むべき人。日本人の宗教って昔も今もワケわからんなと思ってる人。
先祖崇拝とか言われてもなんかビビるし面倒くさそうだし誰に聞けばいいんだって思っちゃう人
魂の居場所なんかを理屈では説明できない。それが現代人にとってはガマンできない。
はい。信仰や宗教、まして死後の世界なんて突き詰めれば誰も知らないわけじゃないですか。
めっちゃ自信満々で「俺は知っているんだ!」って言う人は詐欺師か教祖志望の人なので距離を取った方がいいと思います。
死後の世界や魂のゆくえがぼんやりしてても昔の人は長老やえらいお坊さんのお話を聞いてそれなりに納得をしていたのです。それが信仰というものです。
ですが現代人のアタマって昔よりかなり理詰めでモノを考えるスクエアなものになっているんですね。
理屈で説明できないものに対してまず抵抗感がどこかで生まれてしまう。
そもそも宗教や信仰なんて理屈からハイパージャンプしたところにあるわけですから理屈から外れていて当然なんです。理屈に100%そった宗教なんて無い。
ですからアタマでっかちの現代人から見れば旧来の信仰というものはどこか生暖かい視線で付き合っていくしかないんですね。 そこをふまえて次行きましょう。
先祖の魂、いろんなところに分散されすぎ説。場所の感覚なんて超えているからか?
例をあげます。
●位牌
●お墓
●山とか川
●極楽浄土
まこれくらいか…。一か所にまとまらないのがミソですね。
位牌に故人の魂は宿るのか?
明確な結論は出ませんよ。しかし続けます。
浄土真宗では位牌は基本的には作りません。亡くなったらすぐに阿弥陀如来さまのところに行けるという考え方です。戒名もありません。
位牌って要は亡くなってから頂いた戒名を木の板に彫ったものです(生前戒名が本来の姿なんですが…)。一応、坊さんが「開眼供養」といいますか「たま入れ」、要は「魂を入れる」工程をお経とともにやってくれます。
通常亡くなった家族の人はこの点に関しては完璧にノークレイム、異議は申し立てません笑。「あのお、ほんとうに魂って位牌にはいるんですかあ?」なんて聞いた日には何かが壊れますわな笑。
何が壊れるか…。それはつまり…。信仰でいうところの…「お約束」というかまあ「そういうことになっているもの」とでもいうものですね。
位牌の成り立ち、歴史。
元々は古く中国にて儒教で使われいたらしい。それが日本に入ってきて仏教で使われ出したのが鎌倉時代…とダリーは聞いております。出典はねえよ。今では故人そのものとされて大事にされてますよね。
じゃ、お墓って?
お墓にもご先祖様は住んでいるのか?もうわからなくなってきました。お墓の最大の役割ってご遺体や遺骨の安置とその供養なんですけれどね。
歴史は仏壇なんかよりもずっと長い。仏教が生まれる前から世界中であります。
日本を含め多くの国ではお墓って石でできてます。日本は特に色濃いですが石などの自然のものに魂は宿るのだという原始的な信仰の影響もみられますな。
山河、大自然にもご先祖様はいるような気もする
もはや生前の人格などはあんまり残っていないイメイジですけれど。もっと大きなものとなって見守って下さっている感覚・・・のようなものが時々します。
文字通り「至るところに」祖先の魂はいるのかもしれません。ま、気のせいかもしれませんが…。
結局、ご先祖様って極楽浄土にいるんじゃねえの?
全員、極楽にいけるとは限りませんが地獄にご先祖様がいる…とはあまり考えたくないですね。結論を言うともうご先祖様、どこにいるのか見当がつきません。いろんなところにヒョイヒョイ顔を出しているイメージですね。理屈の外のような気もします。
ややこしいですが極楽と六道の一つである天道というのもまた少し違う概念です。ややこしいからやめときましょうここでは。
まとめ:魂の所在に回答は無いが思いをはせたり疑問を持つのは大事と思います。
はい。そもそも仏教について語るのって坊さん以外やっちゃいけない感じありますよね?そこからおかしいんですよ。そもそも。疑問は疑問で提示する場面って必要だと思います。疑問も持ってはいけないものは廃れるだけだと思いますね。
そもそも仏教って世界の真理を説明した哲学であり、道徳教育の方便なんですよ。その方便は残念ながら現代では家庭でも学校でもほとんど教えてくれないですね。
多少、お寺の坊主にメディア通して語ってもらうなり、門外漢のぼくみたいな人間が語った方が道徳教育の復興にはなりそうですな。
とえらそうな事を書いて今日はここまで。ありがとうございます。
日本の住職。檀家でもない一般人からはどんどん遠い存在になってますね。
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